イノセンス〜まごころを、君に(1)

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イノセンス〜まごころを、君に(1)



 ○● Prologue

 「あの人」に逆らおうとは一度も思わなかった。どんな命令にも従い、敷かれたレールの上を、前だけを見据えひたすら走った。それが自分の幸せだと、ずっと信じていた。
 不満はなかった。課題をひとつクリアするたび、ご褒美がもらえたからだ。手に入らないものはなかった。世界はボクのものだった。
 なのに、なぜだ?
 どうして「彼」だけがボクのものにならない?
 漆黒の髪とミッドナイトブルーの瞳を持つ「神の子」――GC。
 ボクの手を拒み、背を向けた「彼」。救う価値のない女を庇い、傷ついた「彼」。ボクではなく、ボクのレプリカを選んだ「彼」。
 失敗したのは事実だ。でもあれはボクのせいじゃない。ボクは「あの人」の言いつけを守っただけだ。ボクはなにも悪くない。
 だとすると…………。
 「あの人」がボクを裏切ったとでも……?
 生まれて初めて抱いた疑惑は、ほどなく大きな怒りに変わった。父と敬い慕った相手を、心から憎いとさえ思った。
 もうやめだ。「彼」が手に入らないなら、命令になど従わない。ボクはボクの考えで動く。それでもなお、「あの人」がボクを縛ろうというのであれば、そんなやつはこの世から消し去るまでだ。

  ねえ、わかっているんだろう?
 ボクは君をあきらめたわけじゃないんだよ。
 助かったと安心するのは、少し早いんじゃないかな。
 待っていて、必ず迎えにいく。そして、二度と離さない。

 瀬那。
 君はボクのものだ。
 ――永遠にね。


 ○● Turn. One −夢

 見上げると、そこに満天の星空。

 ぼくらが暮らすこの地球(ほし)は、偽りとまやかしで満ちている。
 目に入る風景、そのすべてが、人の手により作り出された精巧なイミテーション。そこに本物と呼べるものはひとつもない。
 だけど、「美しい」と感じることはできる。感動する心だけは、紛れもなく本物だ。人の気持ちは、人の手で作り出すことのできない最後の砦なのかもしれない。

 街中から少し離れた小高い丘は、星空を堪能できる隠れた名スポットだ。周囲に民家は一軒もなく、月の光だけが、あたりをほの明るく照らしていた。
「うわあ……こんなすげぇ星空、初めて見るかも」
 草の上に寝転ぶ聖(ひじり)が感嘆の声を上げる。
「夜中に出歩いたことなんて、今まで一度もなかったからなあ。まさに、灯台もと暗しってやつだぜ」
 今日は聖の十七回目の誕生日だ。お祝いにこの星空を見せたくて、P那と三人、ここまで出向いてきた。
「ありがとう、P那、ノア」
 感謝の言葉に、聖の向こう側に座る瀬那の頬がかすかに緩む。左耳のピアスが、月明かりを受けてきらめいた。リオからもらったワイルドなデザインのそれは、今の彼にとてもよく似合っている。
「こうしているとさー、人間のちっぽけさってやつが、つくづく身にしみてくるぜ」
「偽物の星なのに、か?」
「おい、P那。おまえがそれを言うか?偽物とか本物とか、おまえこそ全然気にしてねぇくせに」
 起き上がった聖が、金髪を揺らし呆れ口調で言い放つ。文句を言われたP那は、どこか嬉しそうだ。
「聖の方こそ、ずいぶんと頭が柔らかくなったものだな。偽物の空をバカにしていたやつの台詞とは、とても思えないぞ」
「おかげさまで。なにしろ、毎日、誰かさんを見ているもんでね」
 言いながら、今度はぼくに視線を向けてくる。
 普段は青い聖の瞳が、夜のせいで沈んで見える。眼差しに他意はないとわかっていても、体に緊張が走ってしまう。
 聖は、P那の幼なじみで親友だ。そのP那を、一度だけとはいえ騙した。そんなぼくを、今でも聖は心から許してはいないだろう。
 まっすぐな視線に耐えきれず、思わず目を逸らした。そのとたん、いかにも「がっかり」といった感じの声が戻る。
「またそうやって他人行儀か。……一緒に暮らし始めて、そろそろ一ヵ月だぜ?いいかげん、打ち解けてくれてもいいんじゃねえ?」
「他人行儀だなんて……」
 そんなつもりはない。聖との接し方は、ぼくにとってはごく普通だ。
「P那と同じくらい、とまでは言わないけど、もうちょっと懐いてくれてもさあ……」
 ぼくにとってのP那は、誰にも代え難い特別な存在なのだ。それを、同じようにと言われても困る。
「……おまえが教えてくれたんだぞ」
 どこか拗ねたような聖の呟き。
「ぼくが?……なにを?」
「本物とか偽物とか、そういった区別の仕方がどんなにバカげているか、おまえを見ていてよーくわかったんだ。要はさ、本質っていうのは入れ物とはベツモノなんだよ。受け取る側が相手をどうとらえているか、重要なのはそっちの方」
 いきなり力説されるが、そういう意味で、ぼくが聖になにかを示した覚えはない。
「聖……。ちゃんと順序だてて話してあげないとノアが困ってるぜ。以心伝心は、一ヵ月じゃさすがに無理だろう」
「ははは。そりゃそーだ。十七年間一緒の瀬那とだって不完全なのになー」
 P那のひとことのおかげで、聖にも明るく笑い飛ばされ、少しだけ緊張が緩む。
「実は俺、なにを指して本物なのかって、レダの一件以来ずっと考えていたんだ。考えている間、ノアと一緒に暮らしてみて、見えてきたものがある。人の手が加わっていなければなんでもいいってわけじゃねえ。肝心なのは中身だ。精神っていうか……有り様っていうか……。うまく言えねえんだけどさ。それと、そいつに関わる人間が本物だと思えば、誰がなんと言おうと本物なんだよ。主観が存在価値を決定する。つまりはー……まあ。そういうことだ」
 かなり高尚な理論に面を食らってしまった。そんな聖に驚いたのは、ぼくだけじゃなかったようだ。
「びっくりだな。聖がここまで考えを変えるとは思わなかったぜ。ノア、おまえこいつになにを言ったんだ?」
「ぼくは……なにも……」
「そうだよ、瀬那。ノアはなにも言っちゃいねぇぞ。言わなくても伝わるもんってあるだろう?」
「ふーん。普通、それを以心伝心って言うんだぜ」
「あ、そっか!んじゃ、やっぱ言葉にしなくちゃダメだな。前言撤回!会話は重要だ」
 P那の鋭い指摘に、聖が弾かれたように笑い出す。つられて瀬那も笑っている。大好きな優しい笑顔だ。その顔を見られるだけで、ぼくまで幸せになってくるから不思議だ。
 ぼくにとって瀬那は、確かに平常心を保てない相手だが、同時に安らぎを与えてくれるただひとりの人でもある。
 だから離れられない。周りに迷惑をかけても、今もなおぼくがドームに居続ける理由だ。
 だけど……。
 突然、心に影が差した。
 目の前のふたりは、同じように年を重ね、同じ時間をともに生きていく。ぼくには絶対に築けない関係だ。
 アンドロイドのぼくに、今日と違う明日はない。ぼくの時間は永遠に流れない。この世に生を受けてから、ずっと止まったままだ。
 瀬那と同じ体が欲しい。
 いつしかそれがぼくの夢となった。
 かなうはずのない夢。神をも恐れぬ傲慢な願い。
 ――過ぎた思いだ。こんなもの、神になると豪語したレダと同じじゃないか。
「なにを考えているんだ?」
 ふいにP那から問いかけられる。そばに聖はいない。少し先にある桜の樹を目指し歩いていた。
「うん。……平和だなって」
「そうだな」
 ぼくと瀬那が政府とラボに別々に拘束された事件以来、ドームに目立った動きはない。束の間の平和なのかもしれないが、できれば永遠にと願う気持ちは強かった。
「ひとりじゃないから」
「え?」
「なにがあってもオレたちは一緒だ。だって友だちだろう?」
 まっすぐ示された好意にドキンと胸がはねた。
「だから、変な遠慮はするな。聖に言えない悩みでも、オレが話を聞くから」
 ぼくの表情の翳りを、瀬那は見逃していなかったみたいだ。だが、いくらP那でも、いや、P那だからこそ本音は話せない。
「ありがとう。大丈夫だよ」
「……そうか?」
 心から納得といったふうではなかったが、幸いにもそれ以上の追求はなかった。
「おーい、聖!これ以上遅くなると、いくらなんでも心配をかけるから、そろそろ帰ろう」
 立ち上がった瀬那が大声で聖を呼ぶ。つられてぼくも腰を上げた。
 ぬくもりを感じ斜め下を見ると、P那の手がぼくの手に触れている。
 さりげない気遣いが嬉しくて、うつむいたままで笑みがこぼれてしまった。


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