イノセンス〜まごころを、君に(5)

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イノセンス〜まごころを、君に(5)



●○ Turn. Two −誘惑

 地面を蹴ってひたすら前へ。アンドロイドの力を駆使しての全力疾走。こんなムチャをしても、ぼくの体は息切れひとつ起こさない。
 約束の時間はすぐそこに迫っていた。今は、力の出し惜しみをしている場合ではない。
 幸い、P那はぼくを追いかけて来なかった。たぶん聖とリオのおかげだ。あのふたりがタイミングよく姿を消してくれたので、瀬那に行き先を追求されずにすんだ。これはきっと神の思し召し。内密に事態を収めろという啓示に違いない。
 瀬那がぼくを気にかけてくれるのは、正直嬉しい。だけど、それも時と場合だ。今日の待ち合わせだけは、絶対にP那に知られたくなかった。
 立ち止まり、握りしめた手紙にもう一度目を通す。
 「あなたと、ぜひ話を」
 驚くほどそっけない一文。差出人はぼくが一番顔を合わせたくない相手――ネオGCの涼生だった。昨日、中央病院の前で、この手紙をリオに手渡したらしい。
 しかし、今さらぼくに何用があるのだろう?ぼくが涼生をよく思っていないのは、あいつ自身も十分承知のはずだ。瀬那が重傷を負う原因を作った相手を簡単に許せるほど、ぼくは心が広くない。
 レダの凶弾から、身を挺して涼生を守った瀬那。あの時彼が流した血は、今も脳裏に焼きついている。記憶がリセットされない限り、これから先もずっと、トラウマのようについて回るのだろう。
 「外」では皆無だった夢へのシンクロ。それが突然復活した理由は、おそらくP那が死にかけたからだ。
 大切な人を失う恐怖。涼生への嫉妬。レダに対する憎しみ。こういった感情の乱れが、暴走の引き金になったのだろう。
 ぼくの頸椎に隠されたブレインゲート。そこに収められている記憶チップ。
 ぼくの感情データは、大脳と記憶チップの両方に蓄積される。コントロール不能に陥っているのは、たぶん記憶チップの方だ。
 夢へのシンクロを抑制すべく、今のぼくは睡眠を取らない生活を続けている。
 不眠不休が堪えているのではない。アンドロイドに睡眠は不要だ。だけど、この行為が根本的な解決になっていないのも事実だ。
 ほんの少しの気の緩みが、瀬那の不都合につながる。
 シンクロへの恐怖が、ぼくから安息を奪った。ここ数ヶ月間、緊張を強いられる日々が続いている。
 もちろん、レダや政府への警戒も怠ることはできない。
 まさに綱渡りだ。ぼくの許容量は、すでに限界に近かった。
 そんなタイミングでの涼生からの接触。嫌っているはずのぼくを誘いだすとは、なにかを企んでいるに違いない。
 ぼくは瀬那のように人がよくない。むしろ疑い深い性質だ。リオや聖に対して、心から信頼を寄せられるようになったのだって、つい最近になってからだ。
 妄信的になれる相手は瀬那だけ。
 あとひとり、ぼくの育ての親――先生。
 アンドロイドのぼくを、実の息子のように愛してくれた。あの先生は今、どこにいるのだろう。無事でいるのだろうか。
 ラボから呼びだしを受けた夜、寝たふりをしていたぼくに記憶チップをくれたのが、先生との最後だった。その時のチップは、今もなおぼくを守ってくれている。
 ぼくの命はP那のためにある。彼に危害を加える者は、誰であれ絶対に許さない。近づけてなどなるものか。
 だから涼生の狙いを探りたかった。レダのいるドームに、なぜいまだに残っているのか、その理由を知りたい。P那が欲しいから、というだけでは納得がいかない。冒すリスクが大きすぎる。

 待ち合わせに指定されたのは中央図書館だった。ここは、以前ぼくが監禁された場所だ。瀬那がレダに殺されかけたところでもある。そんな不吉な場所をわざわざ選ぶなど、相変わらず涼生の考えはわからない。
 ロビーを抜け検索コーナーへ。壁の大時計の針は、約束の時間――四時をさそうとしていた。
「ノア先生」
 ふいに名前を呼ばれ、それが涼生だとすぐに気づいた。返事もせず、ゆっくり振り向く。
「嬉しいな、ちゃんと来てくれたんだ。感激だわ」
 目に飛び込む長い黒髪。そしてミッドナイトブルーの瞳。憎み合う関係になる前は、瀬那に似ていると思ったが、今はそうでもない。腹に一物あるからだろうか、表情の端々に、瀬那にはない歪んだ雰囲気がにじみでている。
「久しぶりですね。お元気でした?」
 バカ丁寧な挨拶に、いっきに嫌悪が募る。みんなはぼくを、穏やかな性格ととらえているようだが、それは間違いだ。激しやすい部分を理性で抑えているにすぎない。
 思わずにらみつけるが、涼生もそれくらいでは動じない。ぼくのこの反応は想定内だったらしく、笑いまじりに言葉をつないでくる。
「おお怖い。挨拶くらいしてくれたっていいでしょう。それとも、そんなに私が許せない?ノア先生をだましてドームへ連れて来たから?それとも、瀬那が命を投げだしてまで庇った相手だからかしら」
 あからさまな挑発だ。人目がなかったら、きっと殴りかかってしまっただろう。乗せられまいと、奥歯をかみ必死に耐えた。
「まあ、いいわ。本当はね、先生には二度と会うつもりはなかったの。でも、そう言ってもいられなくなって」
 声を潜めた涼生が、ふいに真顔になった。
 会うつもりがなかったのはぼくも同じだ。でも、今のこいつの態度の変化はちょっと気になる。
「……話って…なに?」
「ここじゃ声が響くわね。……一緒に来て」
 言うや否や、いきなり腕を引かれた。不用意な接触に驚き手が出そうになるが、ここで振り払うほどぼくも考えなしじゃない。誘いに応じた時から、これくらいは覚悟の上だ。
 連れて行かれたのは、AV資料を視聴するためのブースだった。少人数用なのか、モニターの前にはふたり掛けのソファが二脚用意されている。一方に陣取った涼生は、ぼくにもベンチを指し示した。だけど無視する。
「それで君は――」
「お願いがあるの」
 立ったままの問いかけを、いきなり涼生に遮られた。
「お願いがあるのよ、ノア先生」
「……お願い?」
 関係が最悪のぼくに、こいつはなにを頼もうというのだ?
「そう、お願いよ。それも、先生にしかできないこと」
 ぼくを見上げる顔からは、真意がまるで伝わってこない。
「ずいぶんと勝手な言い草じゃないか。君がこのぼくに『お願い』?冗談だろ」
「冗談なんかじゃないわ。それにこれは、先生や瀬那のためにもなる話なのよ」
 これでは埒があかない。
 ――仕方がない。ここはぼくが折れるか……。
 たとえ断ったとしても、涼生はきっとあきらめない。話を聞くまで誘い続けるだろう。
「いいだろう。話だけはいちおう聞くよ」
 承諾の言葉に、涼生が満足そうに口角を上げた。だが次の瞬間、その口から、とんでもない要求が飛びだしてきた。
「レダを殺してくれる?」
「え…?」
「先生の手で、レダをこの世から完全に葬り去ってほしいのよ」
「……からかっているのか?」
「とんでもない。本気よ」
「……」
 思いつきや衝動で出た台詞ではないらしい。
「ねえ先生。よく考えてみて。レダは危険極まりない存在よ。そんな男を野放しにしておいていいの?それじゃ、いつまでたっても安心して暮らせないわ」
 人を焚きつけるような物言い。言葉の裏に涼生の企みが透けて見えた。敵対するぼくに頭を下げるほどレダを憎んでいるらしい。
「あいつは一度死んでいるのよ。今生きていること自体が間違いなの。見かけだけのあんなモノ、すでに人間じゃないわ」
 見かけだけ――それはぼくも同じだ。
「そう……レダは人間じゃない」
 繰り返す口元が、醜く歪んでいく。
「先生ならレダの息の根を完全に止められるでしょう?P那にだってできたんだもの。アンドロイドの先生が、できないはずないわよね」
 P那の話を持ちだされ愕然とした。どうやら涼生を甘く見ていたようだ。この女は、いったいどこまでのことを知っているんだろう。
「P那もきっと喜ぶわよ」
 ふいに憤りがこみ上げた。
 おまえにP那のなにがわかる?あの事件のせいで、瀬那がどんな気持ちで過ごしてきたか……。
 ぼくにはわかる。瀬那は、レダを手にかけたことをずっと悔やんでいる。
 だからこれ以上、知ったような口をきくな!
「おまえは――」
 最低だ、と言いかけて気づいた。
 最低なのはぼくもだ。
 瀬那の悩みを知りながら見て見ぬ振りをした。友だちとして最低だ。
 肉親を殺した相手を責めようともしない。そればかりか行動をともにしている。そんなぼくを、瀬那は全然理解できなかったのだろう。ぼくがレダを心から慕っていたのは、彼もよく知っている。
 すべてをなかったことにしたぼくの態度が、互いの間に溝をつくった。今思えば、ドームを出た時点で、きちんと言葉にしておくべきだったのだ。――ぼくはもうレダを愛していない。レダもぼくを愛してはいないのだと。
 レダが生きて再びぼくらの前に現れた時、瀬那の心がどんなに楽になったか。本当は憂慮すべき事態なのに、いっきに気持ちが通じ合えたのも事実だ。
 そんなレダの命を、目の前の涼生は奪えと言う。
 同じGCなのに、この違い。
 ネオGCとは、かくも冷酷さなのだろうか。
「これは殺人じゃくなくて破壊よ。だってあいつはヒトじゃないもの。レダさえいなくなれば、もう誰も瀬那を奪おうとはしないわよ。先生はあの人の永遠を手に入れたいと思わないの?」
 こんなのただの建前だ。
 瀬那の永遠になりたいと望んでいるのは涼生自身だ。自分を庇って血まみれになった瀬那に、涼生はすがりついて泣いていた。P那が好きだから、失いたくないから……。じゃなければ、あそこまで無防備にならないだろう。
 手を汚す役割はぼくに任せ、自分はきれいなままで瀬那に愛されたいというのか。
 冗談じゃない。
「話がこれで終わりなら、ぼくは帰るよ」
 話は終わりとばかりに踵を返した。とその時、背後から涼生の声。
「あなたの大切な『先生』が望んでいるとしても?それでも先生は断るつもり?」
 ぼくの大切な「先生」?
 ……まさか、「先生」とは「あの人」のことか?
「涼生……」
「私の話もこれでおしまいよ。返事は今じゃなくていいわ」
 立ち尽くすぼくの脇をすり抜け、涼生がドアノブに手をかけた。
「待てよ!」
「じゃあね、先生。今の話、考えておいて」
 儀礼的な笑顔を最後に、ドアがバタンと閉められた。後を追おうにも、ショックのせいで足が動かない。とても立っていられなくなり、崩れるようにベンチに体を預けた。
 「先生」が近くにいる。さよならも言えずに別れてしまった「あの人」が、ぼくのことを見ている。
 興奮にも似た喜びで、たちまち胸が熱くなった。
「……でも、どうして?」
 レダを殺さなくてはならないのか?そんな台詞を、はたして「先生」が言うだろうか?レダは「先生」にとって血を分けた息子だ。それとも、人の手が加わった段階で、息子と思わなくなったというのか。だったら、最初から人間でもないぼくはどうなる?
「先生……!」
 不吉な者同士、相打ちにでもなればいい、と願っているのかもしれない。
 一瞬の喜びは、たちまち絶望にすり替わった。胸の痛みに耐えかね、自制の力が緩みそうになる。
 ダメだ。今までがんばってきたことが、こんなバカげた取引のせいで台無しになってしまう。
 必死の抵抗もそこまでだった。意識が徐々に薄れ、やがて座っているのもままならなくなる。堪らずベンチに身を横たえる。
 閉じたまぶたの裏に、先生と瀬那の顔が浮かんでは消える。
 ぼくはどうしたい?レダを屠りたいと思っているのか?
 繰り返し自分に問いかけるが、答えは出てきそうになかった。


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